牧野富太郎博士のこと

 

我が家は子供のころ大家族で、祖父母と父母に子供3人さらに下宿人が12名いた。部屋数は2階に3部屋あったようだが、普段は下宿人が2部屋を使い、広い1部屋を祖父が書斎・書庫として使っていた。1階に4部屋あり、離れの一部屋を祖父母が使い、3部屋を私たち家族5人が使用していたので、当時は広いと感じたことがない。しかし正月などには1階の6畳と8畳の2部屋のふすまを取り払い14畳の宴会場とし使用していたので、今の3LDKの暮らしから考えれば広いのかもしれない。

大家族にありがちなことだが、祖父が家長として一番偉かった。食事も祖父が現れない限り「いただきます」とはならなかったので、適当な時期に私が祖父を呼びに廊下を走った。

 

我が家では日本で一番偉い人は?の答えは「牧野富太郎博士」だった。と言うのは正月に牧野富太郎博士から年賀状が来ると祖父は「牧野博士は日本で一番偉い人だ。小学校中退なのに、自分で勉強して東大の先生になった。」と話していたからだ。祖父の死後分かったことだが、祖父もまた小学校を卒業するとすぐに横浜に丁稚奉公に出された。その後牧野博士と知り合い「君もがんばれ」と激励を受け、一念発起して独学で教員免許を取ったそうだ。残念なことに牧野博士の年賀状は一枚も残っていない。

冒頭のハガキは祖父が昭和610年頃、新潟六日町中学校の教師をやっていて、たまたま「ヒカリゴケ」を発見し話題になったとき、昭和10年に牧野博士からいただいたものだ。差出住所が「東京市板橋区東大泉町557」となっており、一銭五厘の官製はがき(楠公)であることが時代を感じさせて面白い。ちなみに大泉村が板橋区に編入されたのが昭和7年(その前は東京府北豊島郡大泉村)で、太平洋戦争の後板橋区から練馬区の分離独立が認められた。

 

牧野富太郎博士は渋谷にお住いの時、関東大震災(大正12年)に遭遇し、当時次のような文章を残されている。

「震災の時は渋谷の荒木山にいた。私は元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりもこれを心行くまで味わったと言った方が良い。当時私は猿股ひとつで標本を見ていたが、座りながらその揺れ具合を見ていた。そのうち隣家の石垣が崩れだしたのを見て家が潰れては大変と庭に出て庭の木につかまっていた。妻や娘たちは家の中にいて出てこなかった。家は幸いにして多少の瓦が落ちた程度だった。余震が怖いと言って皆庭に蓆を敷いて夜を明かしたが、私だけは家の中にいて揺れるのを楽しんでいた。」(私は草木の精である)より。

夫が生涯をささげて集めた貴重な植物標本や文献、研究資料を守るため、すえ夫人は郊外に居を構えることを提案し、牧野博士も大泉の地を気に入り、大正1553日に転居してきた。牧野博士64歳。すえ夫人52歳であった。牧野博士は昭和3211894歳で逝去されるまでここを終の棲家とされた。

 

当時大泉学園は大正13年の東大泉駅(現在の大泉学園駅)の開業もあり、牧野博士が移り住んだ大正15年頃は人口が増加していた。昭和5年に旧都市計画法により石神井が風致地区に指定されると、昭和8年には大泉も風致地区に指定され、「風致協会」により道路沿いに桜が植えられた。「私が都知事なら街路樹を全部櫻にして、飛行機から眺めたときにピンクに染まるのが東京だと一目でわかるようにするんだ」と牧野博士が言ったのがきっかけとか?

牧野博士は都市の景観を守る運動をしたと言われているが、もう少し子供っぽい無邪気な発想だったような気もする。

 

三宝寺池は江戸名所図会にも掲載され、江戸時代から郊外の名所であった。海抜約50メートルある武蔵野台地のほぼ中央部に位置し、武蔵野丘陵のくぼ地から湧き出る沼沢地で、天然記念物指定を受けた昭和10年頃には沼沢植物が多数群生していた。水面高度約40メートル、東西の長さ約300メートル、南北約70m、水深12メートル。昔から石神井川の水源地で、当時は水辺から清水が湧き出ていた。

徒歩圏内の大泉学園に大正15年から昭和32年まで牧野富太郎博士がお住まいのなっていたことも三宝寺池沼沢植物群落の「天然記念物指定」に関係がありそうだ。

 

池の中には、水生植物が堆積して出来たと考えられる「中の島」と呼ぶ浮島があり、冬期はカモなどの渡り鳥が多数やってくる。現在(1984年)でも北方系の水草であるミツガシワ、ドクゼリ、サワギキョウ、カキツバタなどの水生植物が見られる。

指定当時の抽水植物12種の内クログワイ、ミクリ、ミズニラは絶滅、浮葉植物4種の内ヒツジクサ、ジュンサイ、ヒルムシロは絶滅、沈水植物6種の内ヒメタヌキモ、コタヌキモ、シャクジイタヌキモ、フサモ、セキショウモは絶滅、湿生植物23種の内ノハナショウブ、ミズオトギリ、ミソハギ、シロネ、コマツカサススキ、オニスゲ、モウセンゴケも絶滅している。

周辺部の都市化に伴い、自然湧水がほとんど見られず、深井戸の補給水でかろうじて昔の景観を保っている現状である。

「天然記念物」指定解除を避けるため、今後水量の確保と水質汚濁防止に力を注ぐ必要がある。(1984年に出版された「日本の天然記念物」参考文献)